甲南高等学校・中学校

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創立者 平生釟三郎

創立者 平生釟三郎

創立者 
平生釟三郎

甲南学園の創立者である平生釟三郎は甲南学園の創立者である平生釟三郎は、武門に生まれ、東京海上保険をはじめとする損害保険業界の近代化に貢献し、川崎造船所の再建を成し遂げて、その名を揚げました。

また大阪自由通商協会常務理事となって自由貿易を説き、経済更新会を組織して実力本位の経営を論ずるなど、経済人としても活躍しました。そして社会事業家としては、患者本位の治療を施すために甲南病院を設立し、相互扶助の精神に賛同して灘購買組合の結成に協力を惜しみませんでした。さらに貴族院議員や枢密顧問官に任ぜられ、政界においてもその名を留めています。とりわけ広田弘毅内閣の文部大臣として、義務教育の年限延長や官学と私学の差別撤廃、それに師範教育の改善を提唱したことは、特筆に値しています。

一方で平生は、母校である高等商業学校の主計学校で教鞭を執り、兵庫県立神戸商業学校の再建にあたるなどの経験を踏まえ、教育事業家ないし教育者であることに自己の天職を見いだしていました。人格の修養と健康の増進を重んじ、個性を尊重して各人の天賦の特性を伸張させる教育理念を掲げ、これを実現するために甲南幼稚園および甲南小学校の設立に参画し、甲南中学校さらに七年制の甲南高等学校を創設。また育英事業として人類の共存共栄を謳う拾芳会を私財を投じて設立し、兵庫県教育会会頭や文政審議会委員を引き受け、内閣の一員として名を連ねるのに商工大臣ではなく文部大臣に固執したことも、教育への情熱を物語っています。 個性を尊重し、自主自立の精神を養う学園創立の教育理念は、いまなお脈々と受け継がれています。

平生 釟三郎のことば

甲南学園の創立者平生釟三郎は、社会に必要とされる人物の育成を目指し、数々の言葉を残してきました。 そのひとつひとつは今もなお受け継がれ在校生の心に強く響いており、卒業しても甲南生の誇りとなっています。

「世界に通用する紳士たれ」

平生は「健全な常識を持った世界に通用する紳士たれ」と毎日のように生徒に説いていました。

「すべて人は皆天才である」

画一主義、詰め込み教育をやめ、生徒一人ひとりが本来持っている天賦の個性を充分に引き出し、 自分で考え物事を成し遂げる人間に育てるという平生の教育観です。

「日本の教育は教えるというだけでものを考えさせるということはしない」

大正期の日本の教育の模倣主義・詰込主義を批判し、学校において生徒に考えさせる習慣をつけさせ、 思考力・独創力を伸ばすことこそが教育であると説いています。

「人間の魂が人間をつくる人間は人間の魂の力に依らなければつくれるものではないと私は信じている」

生徒と直に接すること。平生は魂で生徒と接し、生徒に交じって意見を戦わせたり、親身になって諭したりする中で、自ら生徒の手本となるよう心がけていました。

「この青年は私の学校を出ておるから人格は最も信用していただきたい」

平生がこう述べるのは徳育を重視し、知育と体育のバランスのとれた人材を輩出するよう心がけていたからにほかなりません。平生の教育思想を端的に表した言葉です。

平生 釟三郎年譜
  • 1866年(慶応2年)
    美濃国加納(岐阜県岐阜市)で誕生
  • 1890年(明治23年)
    高等商業学校(のちに東京高等商業学校に変わる。
    現・一橋大学)を卒業。同校主計学校助教諭に就任
  • 1891年(明治24年)
    韓国仁川海関幇辨に就任
  • 1893年(明治26年)
    兵庫県立神戸商業学校長に就任
  • 1910年(明治43年)
    甲南幼稚園を創立
  • 1911年(明治44年)
    甲南尋常小学校を創立
    私費による育英事業を開始(のちに「拾芳会」となる)
  • 1917年(大正6年)
    東京海上火災保険株式会社の専務取締役に就任し、
    大阪・神戸の両支店長を兼任
  • 1919年(大正8年)
    甲南中学校を創立
  • 1921年(大正10年)
    灘購買組合(現・コープこうべ)創立に協力、理事に就任
  • 1922年(大正11年)
    大阪ロータリークラブ創立に参加、理事に就任
  • 1923年(大正12年)
    甲南中学校を廃止して7年制甲南高等学校を創立
  • 1926年(大正15年)
    甲南学園理事長に就任
  • 1931年(昭和6年)
    甲南病院を創設 理事長に就任
  • 1933年(昭和8年)
    甲南高等学校長に就任
    川崎造船所社長に就任
  • 1935年(昭和10年)
    訪伯経済使節団長としてブラジルを訪問
    貴族院令第1条第4号により貴族院議員に勅任
    川崎造船所社長を辞任し、会長に就任
  • 1936年(昭和11年)
    広田弘毅内閣の文部大臣に親任
  • 1937年(昭和12年)
    日本製鉄株式会社取締役会長に就任
  • 1939年(昭和14年)
    甲南高等学校長に就任
  • 1940年(昭和15年)
    大日本産業報国会会長に就任
    日本製鉄株式会社取締役会長を辞任して取締役社長に就任
  • 1941年(昭和16年)
    日本商工会議所顧問に就任
    鉄鋼統制会会長に就任
  • 1942年(昭和17年)
    勲一等旭日大綬章を受勲
  • 1943年(昭和18年)
    枢密顧問官に親任
  • 1945年(昭和20年)
    東京都目黒区にて死去