貴志康一の生涯

貴志家 貴志天国

貴志康一は1909年(明治42)3月31日、大阪府吹田市にある母カメの実家、西尾邸で二男六女の長男として生まれました。大阪市都島区で育ち、1918年(大正7)9歳の頃、今の芦屋市伊勢町へ引っ越しました。父彌右衛門は祖父の創業した繊維問屋を手広く営み、東京帝国大学(現在の東京大学)を出た趣味豊かな教養人で、教育家として甲南高等女学校の教壇にも立ちました。芦屋の家は父彌右衛門が日本館に加えて子供たちのための洋館を増築し、「子供の家」(La Maison des Enfants)と命名。母カメは慈愛に満ちた家庭を「貴志天国」とよびました。この頃の康一は、活発で好奇心旺盛、人をひきつけて離さない天性のリーダー気質が備わっていたようです。

 

貴志康一と甲南

芦屋市に転居した康一は1919年(大正8)4月10歳の頃、甲南小学校に転校しました。当時甲南小学校は学園創立8年目で、のびのびした雰囲気の中で豊かな個性を伸ばすことに教育の主眼が置かれていました。康一は個性尊重をモットーとした甲南の自由な校風のなかで、創造心と独立心を養っていきました。

 

音楽との出会い

康一は小学生の頃、音楽より油絵を好んで描いていましたが、1921年(大正10)2月、康一が12歳の頃、神戸で催されたミッシャ・エルマンの演奏会でヴァイオリンの魅力に取りつかれ、熱心にヴァイオリンの練習に励むようになりました。家族団欒の場でエルマンの真似をして家族を笑わせることもあったようです。康一は父を説得して、神戸で教えていたミハエル・ウェックスラーにヴァイオリンを、宝塚交響楽団の指揮者ヨゼフ・ラスカに音楽理論を学び、ヴァイオリニストへの憧憬はふくらんでいきました。
また、当時の芦屋浜には海水浴のために外国人が多く滞在し、ヨーロッパ出身の音楽家も集まっていたことから、康一は多くの外国人と交流を深めることができました。真っ黒に日焼けしていた康一は、チョコレートボーイというあだ名でかわいがられていたようです。

 
ヴァイオリニストを志しスイスとドイツに留学

康一は1926年(大正15)17歳の時、甲南高等学校高等科を中退し鹿島丸で渡欧、スイスのジュネーヴ音楽院に留学しました。留学先での練習ぶりを、家族にあてた手紙で次のように記しています。

「上衣のかわりにもん付きの羽織を引っかけて、一日ヴァイオリンを弾いて居る。音楽会へもよく行く。二月十日にはイザイ が演奏する。音楽会も驚嘆するが、コンソバト の生徒の上手な事には「どぎも」をぬかれた。日本人だって負けるものかとがんばって居る。」

 

ベルリンでの留学生活

康一は1928年(昭和3)19歳の時、ジュネーブ音楽院を優秀な成績で修了し、ベルリン高等音楽学校ヴァイオリン科に入学しました。主任教授であったカール・フレッシュに師事し、勉強にも遊びにも真剣に取り組んでいたようです。人脈にも恵まれていた康一は、日本大使館や日本協会、日本人倶楽部などの社交団体に出入りするなど、現地の日本人音楽家とも交流を深めていきました。

 

ストラディヴァリウス

1929年(昭和4)、康一は20歳の時に1710年製の「キング・ジョージ三世」と名付けられたストラディヴァリウスを入手します。当時の時価で6万円もするストラディヴァリウスを抱えて初めて帰国した時、多くの新聞が「6万円といふ名器抱いて若き貴志君帰る」と書き立てました。現在このストラディヴァリウスはハビスロイティンガー・ストラディヴァリウス財団が所有しています。時々貸し出されて日本に来ることがありますが、その都度「日本の音楽家・貴志康一が演奏に使っていたヴァイオリンで、日本人が耳にした最初のストラディヴァリウスであった」と紹介されています。

 

ヒンデミット、フルトヴェングラーとの出会い

康一は作曲家パウル・ヒンデミットや、当時ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者であったヴィルヘルム・フルトヴェングラーとも交流があり、大きな影響を受けました。貴志康一記念室には当時の貴重な写真が残っています。

 

映画制作

康一は映画制作にも関心を抱き、1933年(昭和8)24歳の頃、映画作品「日本の春」「鏡」の二作品を日本とベルリンで公開しました。現在、ドイツ連邦映像資料館に保管されているこれらのフィルムには、京都の渡月橋や舞子の姿、奈良の東大寺が収められています。康一は映像と音楽を用い、ヨーロッパの人々に日本の文化を紹介することを試みたのです。

 

作曲家、指揮者へ転身

康一は、3度目の渡欧では、次第に作曲・指揮に力を注ぐようになりました。歌曲とヴァイオリン曲の楽譜をベルリンで出版した他、1934(昭和9)年、25歳の時、日本人としては近衛秀麿に次いで2番目にベルリンフィルハーモニー管弦楽団を指揮し、自作の交響組曲「日本スケッチ」と交響曲「仏陀」を発表しました。後に康一の指揮、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の演奏で自作のレコーディングも行い、その音はCD 「貴志康一 ベルリンフィル幻の自作自演集」で再現されています。

 

帰国後の活躍、ケンプと共演

1935(昭和10)年、康一は26歳の時帰国しました。翌年には新交響楽団(現在のNHK交響楽団)のベートーヴェン「交響曲第九番」を暗譜で指揮し、絶賛されました。7ヶ月余りの間に、3回の「第九」を含め、新交響楽団を9回、宝塚交響楽団を2回指揮、ピアニストのヴィルヘルム・ケンプとも共演するなど華々しい活躍を続けていましたが、1936年(昭和11)27歳の時、突然病に倒れました 。

 

夭折

康一は盲腸炎に腹膜炎を併発して慶應大学病院に入院しました。闘病生活のさなか、妹照子、父彌右衞門が相次いで急逝し、葬儀出席のため病躯をおして帰阪、そのまま阪大病院に入院しました。1937年(昭和12)、康一は小康を得て芦屋の自宅で静養していましたが、病状が悪化し、再入院。11月17日、心臓麻痺のため28歳の若さで逝去しました。ヴィルヘルム・ケンプが1954(昭和29)年に再来日した際、毎日新聞紙上に「私の思い出の中にある悲しみをともなって居ます。この前私が日本を訪問した時、ともにベートーヴェンの曲を演奏した才能ある日本の指揮者貴志康一氏が、余りに若く死んでしまったからです。彼はたしか大阪の人でした。」と語っています。現在、康一は京都市右京区の妙心寺徳雲院に眠っています。

 

湯川秀樹のノーベル賞と「竹取物語」

1949年(昭和24年)、湯川秀樹がノーベル賞を受賞した際、ストックホルムで催された晩餐会で康一のヴァイオリン曲「竹取物語」が演奏されました。康一が没して12年後の事でした。湯川博士は帰国後、康一の妹である山本あやに会ったとき、あやの持参した「竹取物語」の楽譜に、「ストックホルムにおけるノーベル賞授賞式後晩餐会上、本曲が奏せられた記念としてー湯川秀樹」と署名しています。この楽譜は現在、貴志康一記念室に大切に飾られています。

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