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康一は大阪府吹田市にある母の実家、西尾邸で二男六女の長男として生まれました。小学校高学年の頃、兵庫県芦屋市に越すまでは、大阪市都島区で育ちました。 父は東京大学を卒業した物静かな教養人で、家業の繊維業を継ぎながら教育家でもあり、甲南高等女学校の教壇に立ちました。 芦屋の家には画家に描かれた額「子供の家」が掲げられていました。康一の母は自分の慈愛に満ちた家庭を「貴志天国」とよびました。 |
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小学生の頃は音楽より油絵を好んで描いていましたが、M.エルマンの演奏を聴き、ヴァイオリンの虜になりました。神戸で教えていたM.E.ウェックスラーにヴァイオリンを、宝塚交響楽団の指揮者J.ラスカに音楽理論と作曲を学びました。高校生の時、リサイタルを開きました。 |
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康一はヨーロッパ留学を志し、ついに、高校を中退し神戸港から単身でスイスのジュネーヴに40日余りかけて渡りました。 ジュネーヴ音楽院での練習ぶりを、家族に知らせています。 「上衣のかわりにもん付きの羽織を引っかけて、一日ヴァイオリンを弾いて居る。音楽会へもよく行く。二月十日にはイザイ が演奏する。音楽会も驚嘆するが、コンソバト の生徒の上手な事には「どぎも」をぬかれた。日本人だって負けるものかとがんばって居る。」 |
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音楽院を優秀な成績で修了し、次の留学先ベルリンへ向かいました。ベルリン高等音楽学校で研鑽を積み、帰国前に購入したのがヴァイオリンの名器1710年製のストラディヴァリウスです。帰国途中のシベリア鉄道で、ピアニストのL.シロタと出会い、東京、京都、大阪の演奏会で共演しました。また東京では近衛秀麿指揮の新交響楽団(現在のNHK交響楽団)とともに、協奏曲を演奏しました。再び帰国した時は演奏会を催しだけでなく、作品を発表するなど、多くの演奏活動を行いました。 |
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3度目の渡独では、次第に作曲・指揮に力を注ぐようになりました。歌曲とヴァイオリン曲の楽譜をベルリンで出版した他、1934(昭和9)年に日本人としては近衛秀麿に次いで2番目にベルリンフィルを指揮し、自作の交響組曲「日本スケッチ」と交響曲「仏陀」を発表しました。後に自作のレコーディングも行いました。その音はCD「貴志康一 ベルリンフィル幻の自作自演集」で再現されています。 |
![]() ベルリンフイルを指揮
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映画を制作し、自ら曲を付け日本とベルリンで上映しました。ドイツ連邦映像資料館に保管されているフィルムには、京都の渡月橋や舞子の姿、奈良の東大寺が収められています。康一は映像と音楽を用い、ヨーロッパの人に日本を紹介したいと願いました。そして、ベルリンで「日本の春」を催し、映画と音楽作品を発表しました。 |
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ベルリン留学中には指揮者W.フルトヴェングラー、作曲家P.ヒンデミットと交際し、写真が残っています。 |
左から |
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1935(昭和10)年に帰国し指揮者として活躍しましたが、わずか1年間で病におかされました。関西では大阪朝日会館と宝塚大劇場にて宝塚交響楽団を、東京では日本青年館と日比谷公会堂にて新交響楽団を指揮し、演奏会の数は10余りと多忙を極めました。ピアニストのW.ケンプとも共演しました。 |
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W.ケンプが1954(昭和29)年に再来日した際、毎日新聞紙上に「私の思い出の中にある悲しみをともなって居ます。この前私が日本を訪問した時、ともにベートーヴェンの曲を演奏した才能ある日本の指揮者貴志康一氏が、余りに若く死んでしまったからです。彼はたしか大阪の人でした。」と語っています。康一は28歳で夭逝し、京都市右京区の妙心寺徳雲院に眠っています。
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1949年、湯川秀樹がノーベル賞を受賞した際、ストックホルムで催された晩餐会で康一曲のヴァイオリン曲「竹取物語」が流れました。
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康一の遺品は、母のかめと妹達に大切に守られ、1976年、ご遺族は兵庫県芦屋市にある康一の母校である甲南高等学校に遺品を寄贈し、それらは貴志康一記念室に納められています。 |
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